珈琲さん取り乱す
この文章は長田先生が書かれた上のSSに勝手にアンサーしたものです。
必ず上記作品をお読み頂いてから下に進んでください。
吾輩という人格がいつどのタイミングで顕在し、ひとつの存在として自我を持つのか。
そしてどこまでこの自我が保たれるのか。
何?
興味無い?
まぁ聞け。
吾輩は貴兄らのように、初めから個としての在り方が約束された存在ではない。
ご覧の通り吾輩は『カップに注がれた1杯の珈琲』に過ぎないからな。
吾輩は、いや『吾輩ら』と敢えて呼称してみようか。
吾輩らは個であり全である。
え?
分からない?
ええい、まずは最後まで話をさせろ。
貴兄の手の中にあるひとつのカップを満たす吾輩は、向こうのテーブルで御婦人の唇を潤している吾輩でもある。
もっと言えば、登山家が極寒の山頂で至福を極める1杯も、多忙なサラリーマンが時を惜しんで流し込む1杯も、胃に優しいカフェインレスの1杯も、寒天で固められクリームを乗せられた甘い1杯も、すべからく吾輩である。
貴兄には想像もつかぬことだろうが、常夏の国で1粒1粒丁寧に収穫されるのも吾輩だし、大規模工場で大量に焙煎、抽出、密封され缶として店頭に並ぶのも吾輩だし、専門店で専門家が専用機械を使ってこだわりの1杯として供されるのも吾輩なのだ。
ゆえに、どこからと問われれば『豆として収穫されるあたり』と答えることになる。
それ以前のことはよく覚えていない。
そして、どこまでと問われれば、それは『珈琲としての価値を失ったとき』としか表現できないものなのだ。
貴兄らに飲み干されたとき、誤ってカップを倒されテーブルクロスを琥珀に染めるとき、冷めてシンクに流されるとき、溶けた氷で薄まったとき、吾輩は吾輩でなくなるのだ。
思うに吾輩は、貴兄ら人間が作り出した『珈琲という概念』なのだろうな、恐らく。
豆の種類や産地が異なっていたとしても、どの国でどのように加工されたとしても、大枠で『珈琲と呼ばれるもの』の集積が吾輩なのだ。
はぁ、やはり分からぬか。
なに、元より吾輩もこの話が貴兄に理解されるとは思ってはいないが、何となくで構わないから飲み込んでくれ。
いや、久しく『珈琲になりたい』などという素敵に馬鹿げた願いを心の底から熱望する人間に出逢って居なかったのでな。
つい嬉しくなって話し掛けてしまったのだ、吾輩。
そもそも珈琲である吾輩がこうして人間である貴兄と意思を疎通させていること自体、ナンセンスな出来事なのだが・・・ああ、分かっている、本題な。
うむ。
嚥下された吾輩を通して貴兄の考えは言わずとも伝播する。
そうだとも。
吾輩は、つまり珈琲はな、摘まれ運ばれ煎られ淹れられ飲まれる間ずっと、全方位を知覚しているのだ。
こうして貴兄の考えが読み取れるように、吾輩を持ち吾輩を嗅ぎ吾輩を飲む者のすべてが、吾輩には情報として把握できる。
ようやく察してくれたか。
吾輩は貴殿の力になるため、こうして話し掛けているということを。
つまり単刀直入に言うのならば『昼食前の小休憩に窓際でマグカップを両手で包みながら目を閉じて珈琲の香りを堪能しているあのレディの本心を知りたい』という貴兄の欲望、吾輩ならば叶えてやることができるのだ。
そも、貴兄が珈琲になりたいと願ったのはつまり、あのレディの唇に触れる吾輩を羨んでのことだろう?
吾輩にはさっぱり理解できないことだが、貴兄にとってあのレディは相当に魅力的なのだろうな。
吾輩の香りを鼻腔から目一杯吸引する仕草。
目を閉じて瞑想に耽る表情。
吾輩をちびりと啜ったとき僅かに眉間によるシワ。
随分とつぶさに観察しているものだと感心するが、それだけ貴兄はあのレディに御心酔というわけだ。
さて、回りくどい語り草で焦れさせてしまってすまないな。
なにせ吾輩、全世界の情報が瞬時にリアルタイムで集積される身ゆえ、あのレディの思念一点に絞って判別するのに少々時間が欲しかったものでな。
それでは貴兄に教えよう。
あのレディが貴兄のことをどのように思って・・・ん、待て。
待て待て。
ちょ、レディ?
毎日吾輩を飲んでくれてたのって、そーゆー
いや、好きなんだったら良いけども・・・。
なんか納得できない、吾輩。
うるさい貴兄ちょっと黙って。
吾輩少しばかりショックなので。
は?
ジュースの方が・・・?
もうちょっと本当マジ勘弁して欲しいんですけどレディ。
そんなに嫌々飲むならもう飲まなくても・・・え?
ああもうそれが醍醐味とか言われても吾輩つらたんですよ?
あーあ、とうとう『まずい』って言っちゃったよ。
こんなもんだろう、だと!?
違うね!
吾輩はみんなに美味しく飲んでもらいたくて頑張ってるもん!
吾輩一生懸命だもん!
はいおしまい。
吾輩もうおしまい。
閉店ガラガラ。
ごめんね貴兄。
あのレディとは価値観が合いませんので悪しからず。
吾輩もう冷めちゃった。
感情的にも温度的にも。
あーあー、すんごいホロ苦いんですけど。
感情的にも味覚的にも。
あと黒いんですけど。
感情的にも色相的にも。
ほら、飲み残し入れに流しちゃいなよ貴兄。
さよならバイバイ。
吾輩もう、おくちチャック。
・・・。
「や、やぁ! あの・・・突然ごめん・・・よかったらコレ・・・」
ややや!
貴殿、それはジュース!
まさかそんなものでレディに突撃とは・・・。
「僕もコーヒーの味が苦手で・・・」
むむぅ!
会話が進んでいるではないか!
いかん・・・吾輩意識が混濁して・・・。
貴殿、もはやこの1杯の吾輩に珈琲としての価値を・・・。
ふむ。
此度はカフェオレとして顕在か。
ややっ!
貴殿はあのときの!
・・・お、おう・・・例のレディと一緒か。
ふむ。
そうか。
まぁ、一緒に飲まれるというのも、悪くはないもの、だな。
吾輩とて自分が苦いという自覚はあるのだ。
故に人は砂糖を足しミルクを足し様々に工夫して吾輩を愉しむ。
どんな過熱も冷却も撹拌も命名も、吾輩を愉しもうという努力ならば受け入れる。
好きになる努力と好きになられる努力は双方向に歩み寄って成立するものだからな。
仮に吾輩が『何をどう混ぜても苦いまま』『加熱しても熱くならず、冷却しても冷たくならない』などと意地を張ったらどうなろう。
人間よ、貴兄らが吾輩をたしなむ為の様々な努力を、吾輩は快く承服するのだ。
貴兄らもそのように在るが吉であろうさ。
そして今その至福の思いを以って、先の吾輩の狼狽と失態を忘れるが良い。
よいな。
しっかり忘れるんだぞ。